「妻が怒鳴ってばかりでやだー」
「家に帰りたくねー」
•••こんなことばかり思っていた時期がありました。
45歳で第一子誕生!
あんまり子どもが好きではなかった自分が、子ども誕生をきっかけに人生が一変。
子育てが楽しくて楽しくてしょうがない!
でもその思いとは裏腹に、妻との関係はギクシャクし始め思い悩む日々。。。
はじめまして。むぅ父さんです。
わたくし、むぅ父さんの半生を振り返りつつ、このブログを始めた理由を書いていきたいと思います。
通りすがりのアラフィフおっさんの半生を読みたい人がどれだけいるかわかりませんが、ちょーっとでも共感してもらえるところがあったら嬉しいです。
幼少期から小学生時代
1972年生まれ。千葉県出身。
父が自営業、母は会社員という家庭に生まれました。
両親と姉の4人家族。
両親が共働きだったため、おばあちゃんちによく預けられていたのですが、それがイヤでイヤでしょうがなかった。
姉は小さい頃から人付き合いが上手く誰とでもすぐに仲良くなれるタイプだったのに対して私は真逆。
おばあちゃんちの隣にある公園で、泣きながら「早くお父さん迎えに来てくれないかなー」と待っているような少年でした。
まー、今も健在な人見知りが幼少期から発揮されていた訳です(^^;
この頃好きだったものは、スーパーカーとジャッキー・チェン。
父に連れて行ってもらったモーターショーで、初めて生でランボルギーニ・カウンタックを見た時の衝撃!!
今でも忘れられません。
中学・高校生時代
中学・高校時代はずっと野球部に所属していました。
自分で言うのもなんですが、ずっと続けていたにもかかわらず絶望的に野球が下手くそ。
よく途中で辞めなかったなーと思います。
背番号がもらえずベンチ入りできない私。
同じ境遇の仲間が数名いたのですが、とある公式な大会でウチの監督から
「試合中相手ベンチにいる監督を偵察しサインを盗んで来い」という謎の指令を受けたこともあります。
中学生ながらオレは何してんだろうと思った記憶があります。
でも、最後まで続けたことで自分の自信にもなったし、仲間もできたことは私にとってかけがえのない財産です。
この頃好きだったのは、少女隊とTVゲーム(SEGA)。
ファミコンが大流行していた時代だったので、みーんなファミコンを持っていたのですが「オレはみんなと同じことをするのはイヤだ」と言ってSEGAをやっていました(本当はファミコンやりたかったのに…)。
大学生時代
大学進学を考えていたのですが、通っていた高校が偏差値的には結構な底辺層だったんです。
周りの友達の進路は、高卒で就職か専門学校がほとんど。
友達に大学進学を考えてると言うと「お前バカじゃねーの」って言われてました。
そんな環境ではありましたが、受験勉強は結構頑張りましたよ。
その甲斐あって、なんとか大学に合格し晴れて大学生になることができました。
中学・高校と部活に明け暮れていたこともあり、女子との接点はほぼゼロでしたが、その反動で遊びを覚えてしまってからは、それが楽しくて楽しくて。バイトを通じて遊んでばかりいました。
典型的なダメ大学生。。。
父との別れ
そんな遊んでばかりいた大学1年生の時、父親ががんと診断されました。
幼少期は父が自営業で家にいることが多かったため、父によく遊んでもらってました。
自分が大きくなるにつれ父との会話も少なくなっていきました。特に大学に入った頃はバイトに明け暮れ家を開けることも多くだいぶ心配をかけたと思います。
そんな状況で父が病気であること知ったとき、本当に父に対して申し訳ない気持ちでいっぱいで。
バカ息子。
この言葉がぴったりだと思ったことを覚えてます。
闘病の末、大学2年の時に父は亡くなりました。
人ってこんなに泣けるのかって思うくらい泣きました。
死というものがどういうことか、身をもって教えてくれた父に感謝しかありません。
ありがとう。
憂鬱な営業職のはじまり
就職活動をしているとき、ちょうどバブル崩壊後の就職氷河期と言われていたときでしたが、運よく内定を3社もらうことができました。
職種は営業職。
よくある営業成績が棒グラフで事務所に貼り出されるヤツです。
毎月毎月ノルマが与えられ、それをこなすために1日何十軒も訪問。
営業成績が上がらない時の事務所内での冷たい視線と上司からの詰め。
この世界から早く抜け出したいという気持ちから、自分が本当にやりたいことは何なのかを考え1回目の転職をすることになりました。
ツアーコンダクター
自分のやりたいことを考えた結果、旅行業界で働くことに決めました。
とは言っても何も決まっていない状態だったのですが、運よく知人から旅行関係の会社を紹介してやるよと言っていただき、入ったのがツアーコンダクターの派遣会社でした。
できれば旅行会社で企画をやりたかったのですが、これも勉強になると思い飛び込んだのでした。
ツアコン時代は、海外・国内いろいろなところを添乗で行かせてもらいました。
そんな時に付き合っていた彼女と結婚をすることになったのですが、とにかく給料が安かった。。。
これでは生活できないと2回目の転職を決意。
派遣会社から現職へ
ツアコンの派遣会社を寿退社。
旅行業界での転職は厳しいと諦め、今度は生活第一に待遇重視で考えた結果、人材業界が活況であることに目が止まりました。
前職も派遣会社であることから繋がりもあるし。
結果、大手の人材派遣会社に転職することができました。
32歳のときです。
給与面も落ち着き仕事もまーまー順調だったのですが、34歳の時に離婚。子どもはいませんでした。
39歳の時にお客様からウチに来ないかと声をかけていただき、それをキッカケに3回目の転職。現在に至ります。
今まで3回転職をしていますが、そのたびに周りの方のご縁に助けられてここまで来れたことに感謝感謝です。
少年野球チームとの出会い
ちょうど3回目の転職をした頃、中学の野球部時代の友達から「少年野球チームのコーチをやってるんだけど、手伝ってくれないか」とのお誘いを受けました。
前述した通り野球はやってはいたものの、かなり下手で教えられるようなスキルは持ち合わせていないんです。(ちなみに誘ってくれた友達は中学時代レギュラーで活躍していた)
独り身で休日暇だったこともあり、コーチはできないけど雑用のお手伝いならいいよと少年野球チームに参加することになりました。
それまでは周りに小さい子どもがいる環境になかったのですが、少年野球チームに行くと当然ながら小さい子どもがいることが当たり前の世界。
生まれて初めて子どもがいる世界ってこういうことかと強く感じることができたのと同時に、中学時代の友達が自分の子どもを教えてる姿を見て、不思議な感覚に囚われました。
子どもが欲しいと思ったことがなかったのですが、そのとき初めて子どもが欲しいと強く思いました。
少年野球チームに入っていなかったら今だに、そんなことは思っていなかったかもしれません。
45歳で第一子誕生
43歳の時に再婚し、45歳で第一子(娘)が誕生しました。
月並みですが、なんとまー、自分の子ども可愛いことか。。。
妻も正社員で働いているのですが、妻に産休育休を取ってもらいました。
お互いに初めてのことばかり。すべて手探りでの育児。
今にして思えば当然ですが、育休中は一日中子どもと一緒ですからそりゃストレスも溜まります。私に対してキツく当たること多々あります。
それに対して私も真正面から受けてイライラしてしまう。
お互いイヤな気持ちになる。
これの繰り返し。
47歳で第二子(娘)が誕生。
この時は二人で話し合って、私が3ヶ月間の育休を取ることにしました。
しかし、今の会社には男性の育休取得に前例がなく、本当に取れるのか不安でした。
でも「前例がないのであればパイオニアになればいいじゃん」と考え、何を言われようが出世できなかろうが、強行突破してやろうという思いで上司に言いましたが、そういう思いで伝えたからか、案外すんなり事は進み育休取得することができました。
育児をしている中で、自分の人生で本当にやりたかったのはこれ「育児」なんじゃないかって思いました。
その時に思い立って、保育士資格の勉強を始めてなんとか合格。
定年後の仕事に活かせないかと考えております。
ブログを通じて発信したいこと
家事、育児は女性の仕事。
男性は外で働いて稼いでくる。
男性の育児参加。
イクメン。
まだまだいろんな価値観が存在しています。
現在進行形で子育てをしていて強く思うのは、子育ては期間限定であること。
この期間限定の育児に男性、女性っていう性別に縛られることなく積極的に参加してもらいたい。
参加しないなんて本当にもったいない。
でも実際に子育てに参加すると、思い通りにいかなかったり、夫婦関係がギクシャクしたりいろんなことがあります。
そんな男性、特にアラフォー世代で育児に頑張っているお父さんを応援したい。
共感したい。
かつての自分のような
妻が怒鳴ってばかりでやだー
家に帰りたくないー
こんなことを考えてる時って本当に辛いんですよね。
そういうお父さんをひとりでも救いたいと思ってるんです。
このブログが皆様の一助になることを切に願っております。